由緒

 仁平年間(11511154)の創建と伝えられています。長野市若槻地区の総鎮守であり、旧社格は郷社。御神体は神功皇后が朝鮮征伐の際、皇子(後の応神天皇)誕生を遅らせるため身につけられた鎮壊石といわれる霊石だと伝えられています。

 

平安時代後期、武将源義家が陸奥征伐の際、この霊石を陣中の守護神として携えて出陣し戦功をあげました。その後、霊石は六男義隆(若槻氏を称す)をへて、義隆の子頼隆に伝えられ、頼隆がこの地の領主となったおり、社殿を造営し霊石を納めて八幡大神を奉祭しました。社名はこの霊石に由縁ある筑紫国蚊田の里(現在の福岡県宇美町)から転称したものです。現在の社殿は文久二年(1862)の再建です。

 

春季例祭はかつて五月八日に行われていたことから『お八日』と称し親しまれており、安茂里大門の正覚院、長沼の西厳寺とともに善光寺平一円の三大春祭の一つに数えられています。奉納相撲は大人相撲から子供相撲へと変わりましたが150年以上にわたって続けられています。

 

~善光寺平春の三大祭~ 

 正覚院(長野市安茂里大門) 観音まつり 4月18日

 西厳寺(長野市長沼) 蓮如忌 4月25日

 蚊里田八幡宮 春季例大祭 5月5日 

鎮壊石について

鎮懐石は古くから子授けや不妊、安産の石として信奉されてきました。農作物の豊作を祈願して神に奉げることもあったと伝えられています。古事記、日本書紀、万葉集、風土記等にも鎮懐石に関する記述が認められています。

 

七反幟(ななたんのぼり)

嘉永七年(1854)佐久間象山先生の揮毫。現在は社宝として筆代わりに使用した箒と共に大切に保管されています。現在掲げている幟は当地出身の象山先生の門弟、花岡復斎(18331908)による模写です。

 

 威稜扶宇宙(いりょううちゅうをたすけ)

 恩眷煦生霊(おんけんせいれいをくす)

 

意味:八幡大神の御威光で宇宙が安定している その恵みが生物の上に行き亘っている